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盛岡市
県央エリア
宮沢賢治が大正6年より盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に、弟清六や従兄と大沢川原一丁目の玉井家に下宿していた当時使用していた共同井戸。現在も自由に利用できる。
鈴木舎定
盛岡市出身の自由民権運動家。上京しキリスト教学校に学ぶが、板垣退助らの自由民権運動に共鳴し運動家になり、岩手における中心的な存在である「求我社」の勧誘を受けて帰郷。『盛岡新誌』を発刊し、人々へ自由民権運動への参加を呼びかけた。「求我社」と「協同社」を併合して自由党直結の政治結社として、明治16年に自由党最高幹部である常議員となったが、明治17年、盲腸炎のため志半ばに急逝した。
原敬
盛岡市出身。政党政治の基礎を作った政治家。井上馨の世話で外務省に入り、40歳で外務次官、42歳で朝鮮公使となった。後に伊藤博文らとともに立憲政友会を創立し、大正3年に政友会総裁となった。大正7年第19代内閣総理大臣に就任。我が国で始めての爵位のない総理大臣であり、これで明治以来の藩閥政府は政党政治へと転換し、原は「平民宰相」と呼ばれた。大正10年11月4日、東京駅で一青年の凶刃に倒れた。
少年啄木像
彫像の立つ辺りは昔、盛岡城菜園の路地でした。中学校の頃の石川啄木にとって、あぜ道と城跡は詩情の泉だったようです。本田貴侶作の啄木像は、希望に胸ふくらませてきびしい北風の中に立つ少年のひたむきな姿を、あますところなく表現しています。台座には歌集「悲しき玩具」の中の一首、「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はないけれど」と刻まれています。