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盛岡市
県央エリア
宮沢賢治が大正6年より盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に、弟清六や従兄と大沢川原一丁目の玉井家に下宿していた当時使用していた共同井戸。現在も自由に利用できる。
旧中村家住宅
中村家は「糸屋」または「糸治」と呼ばれた城下町盛岡でも指折りの大きな商家で、呉服・古着などを主に商っていた。初代は宮守村出身で天明2年(1782)から盛岡で商売をはじめ、二代目のときから「糸屋」を称するようになり盛岡藩の特産である紫根染を一手に商うなどして発展した。建物は度々改築や修理が行われたが現在の主屋は文久元年(1861)に造られたもの、土蔵は明治期の建築だが主屋と機能的にも景観的のうえからも切り離せないものとして同時に重要文化財に指定された。建物は二階が発達し戸棚や押入れが多く造られるなど、江戸時代末期の特色がよく残されている。増改築の多い商家が原形を留めている例は極めて珍しく重要文化財の商家としては東北でも数少ないものの一つ。
久慈次郎
青森県に生まれ幼少期を盛岡市で過ごした久慈次郎は、盛岡中学野球部に誘われて捕手となる。早稲田大学入学後も野球部で活躍し、卒業後は実業団チーム函館オーシャン倶楽部に加わった。昭和9年に開催された日米野球大会にてアメリカ選抜チームのベーブ・ルースら一行と対戦し、捕手として沢村栄治投手を好リードした。昭和14年、送球を頭部に受けて死去。今も都市対抗野球では敢闘賞として久慈賞が設けられている。
常磐津林中
明治期に活躍した邦楽家。本名は山蔭忠助。家元豊後大椽の直弟子。初代松尾太夫を継ぎ、その後六世小文字太夫を襲名した。父祖の地盛岡で4年間暮らした後、明治28年に帰京し『関の扉』の舞台でタテ地方を務め、常盤津初世太夫の名を高めた。