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盛岡市
県央エリア
城下町の形成当時、中心部と河南地区とを結ぶ重要な橋でした。擬宝珠は昔、上の橋と与の字橋に使われていたものを補修して付けたものです。
鈴木舎定
盛岡市出身の自由民権運動家。上京しキリスト教学校に学ぶが、板垣退助らの自由民権運動に共鳴し運動家になり、岩手における中心的な存在である「求我社」の勧誘を受けて帰郷。『盛岡新誌』を発刊し、人々へ自由民権運動への参加を呼びかけた。「求我社」と「協同社」を併合して自由党直結の政治結社として、明治16年に自由党最高幹部である常議員となったが、明治17年、盲腸炎のため志半ばに急逝した。
十六羅漢
南部藩時代に起こった飢饉の犠牲者を供養するために建立された宗龍寺境内跡に残る21体の石像。1837年に着手し、13年目の1849年に完成した。岩を切り出した隣の矢巾町からこの地まで運搬だけでも半年あまりかかった。また、彫り上げたのは藩のご用職人たちで、地元の石工が作り上げた石像は全国でも珍しい。
原敬
盛岡市出身。政党政治の基礎を作った政治家。井上馨の世話で外務省に入り、40歳で外務次官、42歳で朝鮮公使となった。後に伊藤博文らとともに立憲政友会を創立し、大正3年に政友会総裁となった。大正7年第19代内閣総理大臣に就任。我が国で始めての爵位のない総理大臣であり、これで明治以来の藩閥政府は政党政治へと転換し、原は「平民宰相」と呼ばれた。大正10年11月4日、東京駅で一青年の凶刃に倒れた。