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本照寺ホンショウジ

宮古市

沿岸エリア

「どうなるものか、この天地の動きが、もう人間の個々の振る舞いなどは、秋風の中の一片の木の葉でしかない。なるようなってしまえ。武蔵は、そう思った。」この書き出しで始まる吉川英治の「宮本武蔵」は、昭和10年に本照寺にて、第一稿が執筆されました。東北自動車道盛岡南から目的地まで県道を経て国道106号で宮古へ宮古→本照寺(市立愛宕小学校近く)車で10分

所在地
〒027-0092 岩手県宮古市愛宕二丁目6番29号
お問い合わせ
宮古市観光港湾課
電話番号0193-62-2111
FAX番号0193-63-9120
その他
観光施設ではないので、利用には制限があります。

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西塔幸子記念館

西塔幸子記念館

西塔幸子は、明治33年、矢巾町白沢で生まれました。実家の大村家は教員一家でしたが、祖先には南部藩砲術指南だった大村治五平という有名な人がいます。又、兄弟親戚にも文学者が多く、幸子は少女時代を豊かな感性を育てる境遇で過ごしました。師範学校を出た幸子は、当時としては珍しかった女教師の道をひたすらに生きました。自分自身も結婚、出産と人間としての重責を負いながら、情熱的に教育に打ちこみ、さらに夜学で地元の青年にも歌劇を教え、地域文化の向上に尽くしました。その傍らで、自己実現のための歌づくりにも没頭し、各方面へ投稿して女流歌人として注目を集めていきます。けれども、幸子が社会的にがんばればがんばるほど、家庭生活には不協和音が生じ、幸子は夢と現実の狭間でジレンマに陥ります。しかし、どんな時でも歌への情熱を捨てず、死の床でも肌身離さなかった歌のノートに綴られた幸子の「生きざま」は死後60年以上を経てますます私たちの胸に迫ってきます。(昭和11年6月22日没 37歳) 西塔幸子の最後の赴任地となった江繋の地に建てられた記念館では、女啄木といわれた薄幸の歌人、西塔幸子の生きざまを紹介しています。

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