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早坂高原
東西1kmをこえる草原を白樺やカラマツの林が囲んでいる。春はキンポウゲ、アズマギク、ツツジ等が咲きみだれる。 岩手山と姫神山が重なり合って見られる草原の一部は牧野として利用されており、「あかべこ」の愛称で親しまれている肉牛の日本短角種が放牧されている。 レンゲツツジ開花時期/6月中旬~下旬
盛岡市
県央エリア
早坂高原は、県立自然公園に指定されており、レンゲツツジ、シラカバ、シナノキ、カタクリなどが訪れる人々を魅了しています。標高916mの早坂峠を中心に広がる穏やかな大平原で、山菜やキノコなどの宝庫としても知られています。また、秋の紅葉も見事です。 アヤメの開花時期/6月中旬~下旬 ノハナショウブの開花時期/7月中旬~下旬
岩泉町
沿岸エリア
渋民公園(第1号啄木歌碑)
石川啄木記念館前の国道4号を横断した北上川のほとりに広がる渋民公園。ここには1922(大正11)年4月13日に建てられた第1号啄木歌碑があり、“やはらかに柳あをめる北上の岸邊目に見ゆ泣けとごとくに” と刻まれている。 公園内の啄木の駅では、喫茶店や地元主婦による手作りケーキや啄木グッズ、産直野菜も販売している。
岩洞活性化センター
宿泊研修室、地元薮川そばのそば打ち体験などができるコーナーや、150人収容の大ホール、産直コーナーがあります。自然に彩られる季節を楽しみながらのレクリエーションに、各種研修にと多目的に利用できる施設です。(自炊施設完備)特にも冬場はワカサギ釣り客で賑わいます。キャンプ帰りの日帰り入浴もできますが、要予約です。
石川啄木記念館
啄木の顕彰と資料収集、保存、情報提供を目的として1970年に開館、現在の建物は啄木生誕百年を記念して昭和61年に建設されました。白い洋館風の建物は、啄木が詩「家」に描いた理想の”我が家”を再現。故郷・渋民を振り出しに、盛岡、北海道、東京と移り住んだ啄木の足跡に沿って、啄木直筆のノートや書簡、写真、衣服など数多くの遺品や関係資料が展示されています。※撮影禁止
宝徳寺
万治元年(1658)に開基され区内一の檀家を擁するこの寺は、石川啄木が幼少時代を過ごした寺。岩手山を真正面に見る境内には「ふるさとの寺の畔のひばの木のいただきに来て啼きし閑古鳥」の歌碑が建っている。平成12年の建替えの際に、啄木が使用してた部屋が復元された。
小岩井農場まきば園
宮沢賢治ゆかりのスポットとしても人気のある、日本最大級の民間総合農場。 農場中心部にある観光エリア「まきば園」では、様々なアトラクションやグルメが楽しめるほか、一般非公開の生産現場などを巡るガイド付きツアーもあります。 2017年2月には農場内の建造物21棟が国指定重要文化財に指定されました。
雫石町
山王海ダム
春は新緑、秋は紅葉の景勝地として滝名川の上流にあるダムで、貯水量は約3,840万トン、農業用のロックフィルダムとしては日本一の規模です。また、お隣の花巻市石鳥谷町にある葛丸ダム(貯水量500万トン)とは2つのトンネルで結ばれている「親子ダム」であり、県内有数の農業地帯である約4,000ヘクタールの水田を潤しています。一般公開(5月~11月)第2土曜日、第3水曜日 9:00~正午
紫波町
岩手サファリパーク
「野生の王国」岩手サファリパークでは、ライオン・トラをはじめ、キリン・シマウマ等約60種類600頭羽のアフリカ動物の中をマイカーやバスで入場いただけます。野生動物の生態・行動などを動物学者になったつもりでゆっくり体験してみよう!
一関市
県南エリア
五郎沼
平泉・藤原氏初代清衡の孫、樋爪太郎俊衡が建立した樋爪館跡の南にある五郎沼は、春は桜、冬は白鳥が飛来し訪れる人を楽しませています。 7月には駐車場隣の蓮池で、中尊寺で泰衡の首桶から見つかった種を復活させた古代蓮(中尊寺ハス)が美しい花を咲かせます。 東岸には、昔、度重なる沼の堤防決壊を食い止めるために人柱にされた女性の泣き声がするという伝説のある夜泣石と呼ばれる石碑があります。
陣ヶ岡陣営跡と蜂神社
前九年の役の際に源頼義・頼家父子が陣営を敷いたとされる陣ヶ岡は、幾多の戦乱の拠点となったところです。 ここには、頼義・頼家父子が勧請したとされる蜂神社や頼義が造らせた月の輪・日の輪の中島などの前九年の役に関係する史跡のほか、 源頼朝による奥州藤原氏征伐の際、殺害された藤原泰衡の首をさらし首にする際、洗ったとされる清水があります。 春は桜、ツツジ、夏はアジサイ、秋は紅葉が美しい詩情豊かな聖地です。
草紫堂
南部紫染は、岩手根紫の名で鎌倉時代から知られており、南部信直公の盛岡治城以後、保護奨励された。良質で豊富な山野自生の紫草根と、独自の染技法、大桝・小桝・立桶の素朴な絞りにより染出され、これを南部紫と呼ぶこととなった。