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塩釜馬具店
東北唯一の馬具店。熊よけ鈴は全国でも人気がある。
盛岡市
県央エリア
葛西萬司
盛岡市出身の建築家。東京帝国大学工学部建築科にて、わが国の建築学の始祖といわれる辰野金吾に建築を学んだ。主な代表的建築物は東京駅、旧国技館(現日本大学講堂)、盛岡銀行本店(現岩手銀行中ノ橋支店)などが挙げられる。
鹿島精一
盛岡市出身の実業家。鹿島組の婿養子となり、組を鉄道建設専門業者にした。新工法を案出して、当時日本一長い『丹那トンネル』の工事で地盤の悪い地域を受け持って、16年かけ完成させた。また組を株式会社にして初代社長に就任し、業界でも帝国鉄道協会理事や日本土木建築業連合会長を務め、土木建築業界の近代化をすすめた。 盛岡市の東にある岩山には鹿島精一記念展望台があり、岩手山を中心とした山並みを一望できる。
金田一京助
盛岡市出身の言語学者で、アイヌ研究の第一人者。東京大学言語学科を卒業し、昭和7年『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』で学士院恩賜賞受賞。東京大学、国学院大学の教授となり、日本学士院会員、国語審議会委員なども務めた。昭和29年には文化勲章を受章。詩人石川啄木とは盛岡中学校時代からの友人で、よく面倒を見ていたと言われている。
久慈次郎
青森県に生まれ幼少期を盛岡市で過ごした久慈次郎は、盛岡中学野球部に誘われて捕手となる。早稲田大学入学後も野球部で活躍し、卒業後は実業団チーム函館オーシャン倶楽部に加わった。昭和9年に開催された日米野球大会にてアメリカ選抜チームのベーブ・ルースら一行と対戦し、捕手として沢村栄治投手を好リードした。昭和14年、送球を頭部に受けて死去。今も都市対抗野球では敢闘賞として久慈賞が設けられている。
郷古潔
奥州市水沢区出身の実業家。昭和16年に三菱重工業の社長に就任したが、同年に東条英機内閣の内閣顧問に選ばれたため翌年会長となる。戦後、三菱重工業は戦時中兵器を製造していたため、当時郷古は社長として増産に励んでいたのだが、戦犯容疑者として拘留されることを余儀なくされた。出所後公職追放などの処分を受けたが、容疑が晴れ処分が解除されると財界に復帰。業界の様々な役職に就任し、戦後の経済復興に尽くした。
石川啄木歌碑(下橋中学校校庭)
啄木の母校盛岡高等小学校(現:下橋中学校)校庭にある啄木の歌碑。啄木の2年上級で少年時代より晩年まで親交が厚く、堅い友情で結ばれていた金田一京助が啄木の歌を後年書いたもので、昭和52年秋、旧職員有志により建立された。「その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかになりけむ」
大慈寺
珍しい中国様式の山門をもつ原敬の菩提寺としても知られる大慈寺は、寛文13年(1673)の創建。明治17年の火災の際に堂宇は類焼したが、原敬の篤志により山門や庫裏などが新築された。
米内浄水場
盛岡市の郊外、上米内にある市の浄水場は桜の名所としても知られ、この時季は特別に敷地内が開放される。場内には約30本のヤエベニシダレザクラが市指定保存樹木として手厚く保護されており、咲き誇る姿はまさに豪華絢爛、桜の女王の風格を見せるかのように圧巻。存在感のある浄水場の赤レンガの建物も桜に花を添える。 【開花時期】5月上旬 ※一般公開期間以外は見学できませんのでご注意ください。
龍谷寺のモリオカシダレ(国の天然記念物)
明治4年から明治28年まで石川啄木の母方の伯父が住職だった寺で、少年時代の啄木もたびたびここを訪れ、詩歌の指導を受けたといわれている。 境内には国の天然記念物「モリオカシダレ」があり、春になると市民の目を楽しませてくれる。
清養院
宮沢賢治が盛岡中学時代に新舎監排撃運動で退寮を命じられて下宿をしていたお寺です。また、裏には「岩手」の由来の伝説が残る三ツ石神社があります。
北上川
県北の水源から宮城県北上町追波湾まで、総延長250km。全国5位の大河。岩手の母なる川である。この北上川と秀麗な岩手山は、盛岡を代表する景観の一つ。開運橋、旭橋、夕顔瀬橋などがビューポイントで、色とりどりの花が岸辺を彩る。
滝沢市
花巻市
県南エリア
奥州市
一関市