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常磐津林中
明治期に活躍した邦楽家。本名は山蔭忠助。家元豊後大椽の直弟子。初代松尾太夫を継ぎ、その後六世小文字太夫を襲名した。父祖の地盛岡で4年間暮らした後、明治28年に帰京し『関の扉』の舞台でタテ地方を務め、常盤津初世太夫の名を高めた。
盛岡市
県央エリア
長沼守敬
一関市出身の彫刻家。イタリアのベネチア王室美術学校で正統的な洋風彫塑技法を学び、明治20年帰国し東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)創立事務所などで働いた。明治31年に同校に塑造科を創立、初代教授となる。高村光太郎は教え子の一人である。代表作の『老夫』は1900年のパリ万国博覧会で金賞牌を受賞。
一関市
県南エリア
新渡戸稲造
盛岡市出身の農学・法学博士で思想家、国際人。国際連盟事務次長などを務め、各国の政治家、思想家、学者らと交流を重ねて、「われ太平洋の橋とならん」という自己の理念に基き、諸外国の日本理解のために努力した。日本人の思想に関する英論文『BUSIDO-THE SOUL OF JAPAN』はその代表作であり、日本文化の紹介書として各国語に翻訳されている。 盛岡市先人記念館に新渡戸稲造記念室があり、ゆかりの品が展示されている。
野村胡堂
紫波町出身の小説家・音楽評論家。本名は野村長一(おさかず)。東京帝国大学法科退学後、報知新聞社に入社。定年まで新聞記者として勤めながら作家としても活躍。SPレコード、浮世絵、武鑑の収集家としても有名。「あらえびす」というペンネームで音楽評論を多数執筆。昭和38年、私財1億円で『野村学芸財団』を設立し、育英資金や研究助成に寄与した。代表作に小説『銭形平次捕物控』。
紫波町
旧石井県令邸
現在の県知事にあたる第二代石井省一郎県令の私邸の洋館として明治18~19年に建設されました。盛岡で最も古い本格的な煉瓦造の洋館で、昭和52年に盛岡市歴史的建造物に指定されました。
橋本八百二
紫波町出身の画家。東京美術大学西洋画科を卒業。昭和5年の帝展に300号の大作『交代時間』を出品・特選となり、以後も連続して特選や推薦に選ばれ続けた。戦後は政界入りして県議会議長を務めた。昭和34年に議員生活を終え、画家としてヨーロッパへ渡り、帰国後に展覧会を開催。昭和50年に盛岡市岩山に自身や友人の作品、バルビゾン派の作品、民芸品など、数々作品を展示した橋本美術館を創設した。(美術館は平成13年閉館している。)
原敬
盛岡市出身。政党政治の基礎を作った政治家。井上馨の世話で外務省に入り、40歳で外務次官、42歳で朝鮮公使となった。後に伊藤博文らとともに立憲政友会を創立し、大正3年に政友会総裁となった。大正7年第19代内閣総理大臣に就任。我が国で始めての爵位のない総理大臣であり、これで明治以来の藩閥政府は政党政治へと転換し、原は「平民宰相」と呼ばれた。大正10年11月4日、東京駅で一青年の凶刃に倒れた。
松本竣介
東京渋谷区生まれ。幼児の頃に花巻にへ、10歳のときに盛岡へ移り住み、17歳まで岩手県で過ごす。モジリアニに傾倒していた。昭和10年『建物』が二科展で初入選、昭和15年には『都会』が特別賞を受賞。戦時中に発表の場が失われる中でも展示会を積極的に開いていたが、衰弱した体で終戦を迎え、”色と線の画家”は36歳の若さで死去した。
三船久蔵
久慈市出身の柔道家。身長159cm、体重55kgという小柄な体で中学時代から柔道を始め、卒業後上京し講道館に入門した。昭和5年に初の全日本柔道選手権大会の特別試合を制す。横山作次郎指南役・八段に師事して年々昇段し、大正12年に七段・昭和20年には十段の最高位を得た。「空気投げ」など数々の新技を考案し、昭和36年県下初の文化功労者となる。
久慈市
県北エリア